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コラム・読み物

代表・出口胡蝶による、
書道や筆耕にまつわるコラムをお届けします。

筆と道具 — 羊毛の筆から墨、紙まで

文房四宝に込められた、二千年の知恵

道具 伝統文化 筆耕

出口胡蝶

私にとって、筆は自分の手の延長にいつもある大事な道具です。筆、墨、硯、紙を「文房四宝」と呼びますが、それぞれに深い歴史と知恵が込められています。

「羊毛」の筆は、実は山羊の毛

「羊毛」の筆と聞くと、モコモコの羊を思い浮かべ、ストレートパーマをかけて筆にしているのかと思っていましたが、実は中国の山岳地帯の断崖絶壁などにいる山羊(ヤギ)の毛で作られています。

一般的な筆は家畜として飼われているヤギの毛が多いですが、山羊の顎の毛は長く、筆のように真っ直ぐ伸びています。顎のひげの部分だけを使用した筆はかなり高価で、書き味は滑らかで弾力があり、線に表情が生まれます。

紙を発明した男 — 蔡倫

中国の後漢時代、和帝に仕えていた宦官に「蔡倫」という人物がいました。物を作る技術に優れ、弓矢、馬具、剣など第一級品を生み出す名工として宮中でも有名でした。

ある時、魚網に麻や樹皮などが絡まっている様子を見てひらめき、研究を重ねて紙を作り出しました。105年に和帝に献上されたこの紙が、世界の文明を変える歴史的な発明の始まりとなりました。

紙が世界を旅した日

蔡倫の紙は、やがて世界へと広まりました。751年、唐の軍隊がイスラム帝国との戦い(タラス川の会戦)で敗れ、捕虜となった兵士の中に紙漉き職人がいたのです。そこから紙漉きの技術がイスラム世界に伝わりました。

パピルスや羊皮紙が主流だった西洋にとっても、この技術は革命的だったことでしょう。発明から西洋への伝播まで600年以上。現代の情報が一瞬で世界中に伝わるスピードとは桁違いですが、それだけの時間をかけてでも伝える価値があった技術なのです。


墨の字が教えてくれること

「墨」の字は、煤(すす)を下から火で炙って集め、膠で固めて作る製法そのものを表しています。同じ構造を持つ漢字に「薫」があり、鍋や袋に入れた香草を下から火で炙っている形です。

漢字の成り立ちから道具の製法までが見えてくる——これも書の世界の奥深さの一つ。筆耕の仕事では、こうした道具一つ一つへの理解と敬意が、文字の質に反映されると信じています。


消えゆく道具と職人への敬意

日本の伝統文化と言いつつも、必要不可欠な道具は筆です。使い続けてきた筆耕用の筆は、主に鼬(イタチ)の毛で作られていますが、材料のイタチの毛が中国から入ってこない状況があり、1年待ちと言われるほどの逸品が未だに入荷せず諦めるしかないこともあります。

困ってばかりもいられないので、すぐに手に入る筆で書きやすいものを探したり、筆を何とか長持ちさせる工夫をあの手この手と考えてみたり…。

でも、そもそも筆・墨・紙は、こんなに手間を惜しまず職人さんが一つ一つ時間を費やし作られていたのに、それにそぐわない金額で提供してくれていたのだな、とあらためて考えるきっかけにもなっています。

手に入らなくなって初めて気づく、道具への感謝と職人さんへの敬意。私たちはその知恵と技術の結晶を借りて、言葉を形にしています。